美術と音楽の決定的違い2 (作ることと表現することは違うだろ)

宮沢賢治

美術と音楽の決定的違い1 のつづきです。

美術と音楽の決定的違い1(もとから存在していたものと、この世になかったもの)
芸術全般のことを思うとき、私は最近ひっかかることがあるのです。 音楽の世界と美術の世界の、なんとも釈然としない次元の違いです。 まず何と言っても大きな違いは、目に見える世界と目に見えない世界の違い。 例外から知る美術の傾向 例外はたくさんあるものの、基本的に美術では現実世界で目にするものが扱われることが多いと思います。たとえ空想の怪物が描かれても、それは既存の動物の寄せ集めだったり...

思えば、普通の絵描きさん方の中に、複数人が協力して一つの作品を描くというようなアーティストは、あまり思いつきませんね。(漫画家で、藤子不二雄さんは思い出します)

音楽の場合でも、作曲家というのはコンビや集団で一つの楽曲を作るケースの方が少ない気がします。

美術と音楽の作品公開のプロセスの違い

画家の場合、作品を作る行為はそれ自体が作品を完成させるものですが、音楽家の場合はそこが異なってきます。

バッハやモーツアルトがどれだけ優れた作曲家であっても、一人で全ての楽器を同時演奏することはできませんから、楽団の存在が必要になってきます。

そこで違和感を感じていることがあるんです。

オリジナルを作る人、他人のものをなぞる人

ひとことに「音楽家」「ミュージシャン」と呼ばれる人、いったい何なんでしょう?

このなかには「楽器を弾けるけど曲は作れない」人たちがいるんです。

音楽を作れない音楽家…なんか違和感ありませんか?

 

絵描きさんの話に置き換えてみます。

どこかの画家がレオナルド・ダ・ビンチの『モナ・リザ』を綺麗に模写して展覧会を開いたら、人々はどう思うんでしょう?

世間ではこういう絵描きさんを「贋作家」と言うでしょう。

そっくりそのままの模写ではなく「オレならこう描く」といったオレ流モナリザだったら、どうでしょう?

「俺だったらモナリザの髪は金髪にする」「もっとほっそりした体型にして…」「服は白だ」「そうだ、カチューシャもつけよう」「くちびるはマリリン・モンローみたいに芳醇に…」

パロディとしてなら見ることもありますが、絵の世界ではあまり他人様の既存の絵を我が物顔で扱うアーティストはいませんよね。

ところが音楽の世界ではこういうことが当たり前にあっています。

クラッシックでは誰の指揮でどこの楽団の演奏かによって、同じ曲でも微妙に表現の仕方が変わりますし、クラッシック以外でも様々にカヴァー曲があったりします。

かくいう私の『星めぐりの歌』もカヴァーものです。

宮沢賢治『星めぐりの歌』 交響楽風 Star Circling Song

では、それらのオリジナルはどこにあるんでしょう?

ベートーベンの『運命』のオリジナルは、どんなスピードでどんな強弱で奏でられ、宮沢賢治の『星めぐりの歌』のオリジナルはどんな感じなんでしょう?

作曲家本人にとっての正解はどれなんでしょう?

「これがベートーベンが本当に聴かせたかった『運命』か」「これが宮沢賢治が本当に聴かせたかった『星めぐりの歌』か」と分かるものが現存しているのでしょうか?

正解がない世界の恐ろしい出来事

音楽制作してると、たまにとんでもない人がいるんです。楽器演奏頼んで収録して、完成品を「ご確認ください」と告知したら、自分の担当楽器のことを確認してくれればいいだけなのに、自分のことは一切際棚上げにして、ベラベラと作品に苦言並べてきた人がいたのです。唖然ですよ。

担当する部分のデモは最初に聴いていただいていて、演奏するかどうか事前確認取った上で、演奏するって言うからやってもらったのに。その時は「勉強になりました」なんて言ってくれてたんですけどね。ちゃんとお金も払ってます。

エコーのエフェクトもかけてあげたら「自分がうまくなった気がする!」なんて喜んでました。

でも完成品出来上がったら、ものすごい上から目線のアドバイスされました。ドン引き。

そこまで言うなら、あなたも最後まできちんと演奏して欲しかったわ。修正作業大変だったんですけど・・・。

と、まぁこのような事情があったりしまして、私は一切演奏者や協力者のお名前は公表しないことにしました。

その件があってから、名前公表しない前提での演奏や歌の依頼をするようにしてます。まぁ、その方が安全なんですよね。いちゃもんつけたがる人が世の中にはたくさんいるので。

音楽業界の人で単に楽器店勤務なだけのキャリアなのに、上から目線で批評する人とかいます。で、こちらがその方の演奏作品とか作曲作品とか聴かせてくださいって言うと、ごにょごにょ…

そこのお店、私が大手のコンテストでオリジナル作曲部門の歌作品で受賞した時にはそれを通達してきませんでした。本社の担当者が直々に私にお詫びをしてくれました。怪我の功名で、プロの現場の裏話や制作秘話など聞かせていただいて、勉強になりましたけどね。

絵の世界でも、画廊でどなたかの個展を見に来て偉そうに上から目線で批判してる人がいたことがあり、あまりに不愉快だったから意見したら「それはあなたがまだ未熟だからじゃないですか? どんな絵を描かれるか見せていただいてないからわかりませんけど」なんて言われました。

後日、同じ場所で私の個展をした時、その人が来てました。その方、私に謝りました。大きなコンクールで受賞してたので。

その後はその後で、受賞が続くと「〇〇先生に師事しているから、その口利きで受賞してるだけだ」と言うのが出てきて、その〇〇先生とは無縁のコンテストで受賞したら黙りました。

もう、こういういびつなのを大学時代から随分体験してきてるので、芸術関係者って、実はあまり好きじゃありません。

作るとはなんぞや?

TEDでオーケストラの指揮について興味深いスピーチがありました。

Itay Talgam: Lead like the great conductors

印象的なのは、「作曲家(モーツァルト)に対する責任がある」と厳格で団員たちからボイコットされた指揮者と、最後に登場する”微笑んでいるだけで指揮をしない”指揮者。

究極の理想の指揮者はラストに登場する指揮者かなぁと私は思いますが、これができるには楽団員の演奏がそのレベルであるからこそと思います。

気になったのは、700名の著名を受けて指揮者が辞めたエピソード。楽団員の「私達に作らせてくれない」とは原語通りだとどういうニュアンスなのか気になりました。

「作る」とはどういう意味か、これを言った演奏者は、作曲家だけではなく演奏者も曲を作っているのだと思っているのでしょう。

確かに、演奏者次第で曲は変わるはずです。それを指揮者には言えるかもしれませんけど、これがもしモーツァルト本人に対してだったら言えたのでしょうか?

私はこういう演奏者はプライド高すぎな気がします。モーツァルトが生きていて、その演奏者の演奏を高く評価するなら別ですが、逆にもしモーツァルトが「君たちは余計なことは考えず指揮者の指示に従ってくれ」とでも言ったら、このパワーゲームは演奏者がエゴイスティックに甘えているだけになりそうな気がします。

「あなたは偉大な指揮者です 私たちはあなたと働きたくありません 辞任してください」とは、かなりものの言い方も良くないですね。嫌味です。

大勢で一人に向かってものを言うのなら、しっかり正当な不満を言ったらいいのに、そういう表現力はない演奏者たちだったのでしょうか。

それどろころか「偉大な指揮者とは一緒に働きたくない」なんて、自分達のレベルを低く言っているのも同然。偉大な指揮者についていけるほどの演奏能力がないと言っているに等しいと思います。

敬意を持つ人とエゴだけの人

上のTEDの動画の中で、問題の根源がさらりと述べられています。

指揮者「これが私リッカルド・ムーティが理解したモーツァルトだ」

演奏家「あなたは私達に作らせてくれません」

肝心の作曲家モーツァルト自身が生きていたら、何と言うんでしょうね?

ムーティは作曲家モーツァルトに対する責任を感じて自分の務めを果たそうとしている立派な方に私は思います。(”彼が理解したモーツァルト”がモーツァルト自身にとってどう評価されるかは、確認しようもない以上わかりませんが)

それに対し、演奏者の「私達に作らせてくれない」は、私はどうかと思います。人の褌で相撲を取ろうとしているだけに感じてしまいます。

演奏家がそれぞれ思い思いに「私が作りたいモーツァルトはこうだ」などとやっていて、果たしてうまくいくんでしょうか?

これは醜いエゴイズムによるパワーゲームにしか思えません。「船頭多くして船山に登る」の言葉を思い出します。

この動画はあたかもリーダーシップ論を語っているかのようですが、肝心の作曲家側の視点は不在です。言い分として作曲家に対するリスペクトが存在しているのは指揮者の方だけ。演奏家の言い分は「私達に作らせてくれない」だけです。

私の意見は「そんなに作りたいなら、自分で曲作ればいいのに」「あなたが思うモーツァルトをやりたいなら、あなたが指揮をすればいいのに」です。

そして、その演奏家がモーツァルトと同じ程度に評価される楽曲を作ればいいと思いますし、指揮をしてムーティ以上の評価を得ればいいのではないでしょうか?

そもそも演奏家が「私達にも作らせろ」と言うのが正当な主張ならば、指揮者は必要なのでしょうか?

日本にあった「あ・うん」の呼吸

このTEDの動画でスピーチをしているイタイ・タルガムさんは、指揮についてこんなことを言っていますねぇ↓

「元々感じているより いっそう余計な人間に思えてしまいます」

あらら、言っちゃってますね〜(^ ^)

 

歴史上最初のオーケストラは、どうやら日本の雅楽らしいのですが、これには指揮者が存在していないのです。

それに動画で最後に紹介される指揮者は全然指揮しないんですよね。それでも立派な演奏になっています。

私は指揮者の存在価値をどうこう決めつける気持ちはありません。

なんだかなぁ

いずれにしても、このTEDの動画には作曲家側からの視点は皆無です。

モーツァルトに敬意を示しているリッカルド・ムーティでさえも「”私が”理解したモーツァルト」であって、モーツァルト自身の思いが確認できているわけではありません。

私は昔から腑に落ちずにいることがあります。

カロヤンの指揮がいいとか、バーンスタインの指揮がいいとか、いろいろありますけど、当の作曲家自身が納得するのはどういう演奏なのだろうということです。

クラッシックの場合、たいていは作曲家自身がご存命ではないので、正解は誰にもわからないのです。

当の作曲家が既におらず無言ですから「俺の思う『運命』はコレだ」とやってのけることができるし、それで成功している人は指揮者でも演奏家でも「芸術家」として人々に認知されるわけですが…

一曲も自分で音楽を作らずにいて「音楽とはこうだ」みたいな持論を展開したがる演奏家や指揮者がいたら、その芸術論てどうなんでしょうね?

演奏者の立場から見た音楽シーンを語るのは、もちろんありと思いますが。

目が飛び出るような高価な楽器を、しっかりメンテナンスして、湿度や温度にも気を使い、運搬にも気を使い、そんななかでしっかり練習を積み重ねて一瞬一瞬の演奏に神経を研ぎ澄ますのですから、当然その方々の存在価値はあると思います。

そういう方達の中で私が実際にお会いしてみて、演奏力のみならずその人柄をも尊敬している方もいます。

その一方で、非常に褒められない方もみてきました。自分では何も作れないのに他人の作ったものにケチつけたり偉そうに大声で評論したがる演奏家です。

演奏が上手な人とか、歌が上手い人とか、そこに芸術的価値はもちろんあるとは思うのですが、ただその能力があるだけで音楽全般の良い悪いを語りだされると内心「ん〜?」と私は思います。

それって一般素人がお芝居や映画や漫画や音楽に接してあれこれ好き勝手言うのとなんら変わらないと思うんですね。この人たち、自分では決して一生自分から作品を作って発表したりしないから、自分が評価の的になることがないので、高みの見物でなんとでも言えちゃうわけです。

だってピカソやダ・ビンチの作品を模倣したり「オレ流のゲルニカ」「オレ流のモナ・リザ」とかやってるだけの画家が「いい絵というものはね…」と他の絵描きさんにウンチク垂れたらどう思います?(笑)

絵の世界で言ったら、贋作者や修復者は「芸術家」というよりは「職人」と言った方が私には感覚的にマッチします。

私は、誰かの作ったものを再現できる人と、一からものを作り出す人の能力は別物だと思っています。(どっちが偉いとかではなく、それぞれに全く別の能力だと考えています)

音楽も「一人でできるもん」の時代が来た

さて、私はこの記事の最初の方に “バッハやモーツアルトがどれだけ優れた作曲家であっても、一人で全ての楽器を同時演奏することはできませんから、楽団の存在が必要になってきます” と書きました。

クラッシックではそうかもしれませんが、もっと別の音楽ジャンルでは、作曲家自身が全ての楽器を演奏して発表しているケースもあるのです。

たとえばマイク・オールドフィールドの『チューブラー・ベルズ』

マルチトラック録音という環境が音楽家に与えられて、一人の作曲家自身がほとんど全ての楽器を自分で演奏して人々に聴かせられるようになった、初期の例になると思います。

「私にも作らせろ」と余計なことを言い出す演奏家を頼らずに、全てを自分で演奏して「これが私の表現したい音楽だ」と完成させることが可能になったわけです。

ちなみにマイク・オールドフィールドはサーの称号を受けているような音楽家です。

声だけは、さすがに男女で違いますし、同性でも声質も歌い方の特徴も人それぞれですから、ゲストヴォーカルを起用したりしますけどね。

今はヴォーカロイドなんてものもありますし。

さぁ、もし歴史上の有名作曲家たちが現代の録音技術を駆使できるとしたら、彼らはどんなことをやってのけたでしょうね?

おわりに

個人ブログなので、愚痴らせていただきました(^o^)

若い頃から芸術の世界に接触してますが、私にはめんどくさい世界です。絶対に本格的に表舞台で仕事をする気にはなりません。(裏舞台でもさらに面倒そうで魅力は感じていません)

経歴を表に出すか出さないかでの人の反応の変わりよう、もううんざりです。

経歴出したら出したで、また足引っ張りあるしで、そういう世界は楽しくないので、あまり関わらないようにしてます。随分昔にコンテストにも賞にも業界にも興味がなくなりました。

絵の世界では私は聞かないですけど、音楽の世界だと「モテたいから」という動機で楽器やバンド始める人います。そういう自己顕示欲強い人にも近づかないように気をつけてます。

ちなみにアーミッシュの文化では楽器演奏が禁止されているとかで、それはやっぱり目立って注目を集めてしまうことが問題にされているようです。偶像崇拝的なものとつながるんでしょうかね、多分。

私は何年も前に、芸術と一切関係ないもっと面白い世界を見つけまして、そっちの方が人のためになった実感を得られました。感謝してもらえましたし、大変ではあっても気分的にはいい状態で収入になりました。

人知れず、こそっと全国のお店で自分の商品が販売されて、誰にも知られず静かに過ごせる。そういうのも体験しました。それが一番平和だなと感じています。

そこからまた新たに世界を広げようと密かに頑張ってます。

こういう芸術系で足引っ張りの多い世界からは、その情報は発信できません。

きっと全く別フィールドでやっていくでしょう。

 

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