なぜ児童文学なのか9(言葉と想像の限界 そして口止めされた何か)

宮沢賢治

本記事は小説『ザ・ギバー 記憶を伝える者』及びその別翻訳版『ギヴァー 記憶を注ぐ者』と、その映画化作品『ザ・ギヴァー 記憶を注ぐ者』のネタバレを含みます。

本記事の前回はこちら↓

なぜ児童文学なのか8(ユートピアの秘密と失われたもの)
本記事の前回はこちら↓ 『アミ 小さな宇宙人』の世界は実現可能か? ねぇ『アミ 小さな宇宙人』で描かれたようなユートピアって、作れないのかなぁ? 夢見る乙女ちゃんには申し訳ないけど、無理無理。 細菌もいない世界なんて、逆に心配やわ。 ...

ああ、言葉ってなんて不正確なんだ!(by ジョナス)

新翻訳の『ギヴァー 記憶を注ぐ者』を手に入れて読んでるけど、面白いね! 色のネタばらしされてても、他のこともたくさん考える要素があるから、引き込まれちゃう。これは映画を観ないほうが正解ね。

 

小説よりも映画の方が印象的になった部分もありますよ。

どういうところが?

世界が美しい色に満ちていることを、実際にその映像で見せることができるのもそうですし、この物語には色彩の他にもう一つ隠された重要な存在があります。

「わたしがまだ少年だったとき、おまえより小さな少年だったとき、その力がわたしにあるのがわかってきた。わたしの場合、かなたを見る力ではなかった。違うものだ。わたしの場合は、かなたを聞く力だった」
ジョーナスは額に八の字をよせて、なんとか理解しようとした。
「なにが聞こえたんですか?」ジョーナスはきいた。
「音楽だ」〈記憶を伝える者〉はにっこりした。「いいようもなくすばらしいものが聞こえるようになり、それが音楽だった。別れる前に、すこしおまえにわけてあげよう」
(ロイス・ローリー作 『ザ・ギバー 記憶を伝える者』より)

これは物語が残り30ページになって初めて語られます。そしてその音楽の存在は物語のラストにも重要な位置付けで描かれます。けれど音楽の存在が印象に大きく残ったのは、小説よりも映画の方だと私は感じています。

あのピアノのシーンは良かったね。

ピアノのシーンは小説にはないのよ。けれど、あのシーンで〈記憶を注ぐ者〉が主人公に語る言葉は私も好きだわ。

あの世界には音楽もないの?

そうです。色も音楽も存在しません。

考えてみれば、読書をしている時も結局はそうやね。読んでる文字からは実際の色は見えんし、実際の音楽も聞けへんもん。

わかったつもり

宮沢賢治の童話『イーハトーボ農学校の春』には、最初に楽譜があるよ。そういう文学は音楽を伝えられると思うなぁ。

森雅裕氏の江戸川乱歩賞受賞ミステリー『モーツァルトは子守唄を歌わない』にも楽譜が登場します。

俺は楽譜なんて読めねぇよ。

あたしも読めんわ。

人間には想像力があるだろ。

そうそう、リンゴ投げる場所を勝手に野球場にしたりね! 見ると聞くとじゃ大違い。ああ勘違い。

 

言葉が完璧でないことを示すいい例が『モモ』にもありますね。30分まで先の未来を見通せるカメのカシオペイアと、ホラの会話です。

 「おまえは、灰色の男たちがあとをつけてくることは考えられなかったのか?」
「サキノコトハ ワカリマス」と、カシオペイアの背中に文字が出ました。「アトノコトハ カンガエマセン!」
マイスター・ホラはため息をついて頭をふりました。
「ああ、カシオペイア、カシオペイアーーおまえはわたしにとっても、なぞみたいにわけがわからないことがよくあるよ!」
(ミヒャエル・エンデ作 『モモ』より)

ワケワカメダゼ!

先のことって、結局は今からあとに起こることだね。それでいて過去のことを言う時に「以前」とか「この前」とか言ったりもするね。

「過去をふり返る」とも言うけど、それを「前のことをふり返る」て言うたら、もう何がなんやらやね。

感じ取れる器

読み手や受け手の感受性だけに頼ることが、どんなに虚しいか、『ギヴァー』の本には言葉だけじゃ通じ合えないことがあるのが書いてあるね。

どういうこと?

みんな大した痛みや悲しみを知らないから、ひどい苦痛を体験するジョナスの苦しみが理解できないの。

相手に体験のないことは言葉だけでは共有できないのよ。音楽の場合で例えると、ピアノ曲の譜面を見せても、その人がピアノの音を一度も聞いたことがなければ、楽譜を読めたとしても、その人の頭の中にピアノの音は想像できないでしょ。

ピアノの音を聞いたことがねぇ奴なんて想像できるかよ。

あんたの想像力はその程度ってことよ。

じゃあテルミンならどう?

誰だよテルミンて? どんな娘だよ?

『進撃の巨人』のアルミンは男だけど。

ちがう! 楽器よ! あなたは今テルミンて楽器の存在は言葉で知ったのよ。でもその音がどんなものかは実際に聞くまで分からないでしょ。これが言葉の限界ってことよ。

映画だと、少なくとも色彩と音を実際に体験させることができますね。それは本からは得られませんからね。

「読書ですか? それがあなたの人生でしょうか?」
(ロイス・ローリー作 『ギヴァー 記憶を注ぐ者』より)

アルバート・アインシュタイン
アルバート・アインシュタイン

知識は、ふたつの形で存在する。ひとつは、本の中に、生命のない形で。もうひとつは、人の意識の中に、生きている形で。後者こそがとにかく本質的なものである。
(アルバート・アインシュタイン)

「楽しむためには、楽しんでいるということに気がつくことが必要だ」
「気がつくということは、考えることとは違うことなの?」
「違う。気がつくということは、意識であって、それは思考よりも上なんだ」
(エンリケ・バリオス作 『アミ 小さな宇宙人』より)

映画『ザ・ギヴァー 記憶を注ぐ者』では、あのピアノのシーンでこう言ってた。
「感情は考えるものじゃない 心で感じるものだ」

ねぇ、『モモ』でも彼方から音楽が聞こえてたわよね?

おばさん、よく覚えてるわね。これでしょ?

 どこからかやってくるにちがいない。風みたいなものかしら? いや、ちがう! そうだ、わかったわ! 一種の音楽なのよーーいつでもひびいているから人間がとりたてて聞きもしない音楽なのよ。でもあたしは、しょっちゅう聞いてたような気がするわ、とってもしずかな音楽よ。
(ミヒャエル・エンデ作 『モモ』より)

あの音楽はとってもとおくから聞こえてきたけど、でもあたしの心の中のふかいところでひびき合ったもの。
(ミヒャエル・エンデ作 『モモ』より)

そうそう、これ! 音楽って何か不思議な力でもあるんかねぇ?・・・

生まれた所や皮膚や目の色で

あっ、ところで『ザ・ギバー 記憶を伝える者』の主人公だけが色に気づいたり、〈記憶を伝える者〉だけが音楽を聞けた原因って何やの?

生まれつき手首にアザがある人だけが特別な能力を持ってるみたいなんだ。

映画ではそうなってるけど、小説では違うのよ。瞳の色が、黒じゃなく薄く明るい人が特別な能力を秘めてるの。

ははーん、その本が日本で絶版になったわけが分かったわ。

どういうこと?

だって、黒い瞳は優れてないってことじゃない。日本人の瞳の色はほとんど黒。

黒い瞳は日本人だけではありませんけどね。そういうことへの配慮から、映画では手首のアザに変わったのかもしれませんね。

ヒトラーも、優秀な遺伝子だけ残して劣った人種を撲滅しようとしたんだぜ。本の原作者も実はヒトラーと同じような考えなんじゃねぇのか?

もしかしてその物語には肌の黒い人はいなかったりするんじゃないの? いくら色が見えなくたって肌が白いか黒いかの違いくらいは分かるんだから変じゃない?

ほらほら、勝手な想像が始まった!

『ザ・ギバー 記憶を伝える者』の世界では、遺伝子操作で人種の画一化が実施されているんです。それでも完璧ではないため、たまに赤毛の人がいたり、瞳の色が違う人が出現しているんですよ。

言われてみれば…映画では過去の記憶のシーンにしか黒人はいなかったような…

そういう社会がおかしな社会だということを描いた物語なのを忘れないでね。

映画では、主人公ジョナスが父親の手で赤ちゃんを解放するのを見るとき、それとなく隣に立つ助手の女性は黒人です。小説では生活者たちの肌の色は説明されません。

だったらなぜ瞳の明るさの違いは本に書いたのかな? 黒い瞳の人々はまるで統制されたおバカさんで、明るい瞳の人だけが真実を見る能力があるみたいな…

だから日本では絶版なんと違う?

THE BLUE HEARTS – 青空 (Aozora)

生まれた所や皮膚や目の色で
いったいこの僕の何が分かるというのだろう
(THE BLUE HEARTS 「青空」より)

輪の内側と外側

原作者のロイス・ローリーは11歳から13歳まで東京で暮らしてたそうよ。それも第二次世界大戦が終わって間もない1948年~1950年の頃。駐留米軍将校用の団地で過ごしたんですって。『ザ・ギバー 記憶を伝える者』の主人公ジョーナスも11歳から12歳になる頃が描かれてるわね。

なるほどね。日本人ばかりの場所に、自分だけ目の色が違えば、自分が仲間はずれになる立場よね。十代なのに色々苦労したのかもしれんねぇ…。

色のことだけに?

ジブリのアニメで『思い出のマーニー』っていうのがあるけど、それも瞳の色が違う養女が主人公だった。幼い頃に孤児になって日本人に育てられてるの。

あれもいい映画だったね。

『思い出のマーニー』も原作は児童文学なのよ。

「思い出のマーニー」予告編

 

ところで『ザ・ギバー 記憶を伝える者』が日本語に訳されて出版された時、原作者ロイス・ローリーは57歳くらいです。今は80歳くらいのおばあちゃんですね。

『アミ 小さな宇宙人』の主人公ペドゥリートのお婆ちゃんみたいな人かもしれないね。

 おばあちゃんに、一講義してあげられると思って、目を輝かせながら言った。
「もちろんだよ、ペドゥリート」
間違った答えを、正してやろうと、待ちかまえた…。
「じゃ、なーに?」
「愛だよ。ペドゥリート」
おばあちゃんはしごくあたり前のように答えた。
(エンリケ・バリオス作 『アミ 小さな宇宙人』より)

ねぇ、第二次世界大戦の直後、もしかして日本は彼女にとって『ギヴァー』のような世界を想像させる国だったんじゃない? 普通の日本人が知らない秘密を、そのロイス・ローリーって人は、親やその関係者を通して何か知ってしまったのかも。

はっ…!

第二次世界大戦が終結して、GHQが日本国内の一部の書物を封印したらしいですね。『ギヴァー』の世界も書物が封印された世界です。

主人公のジョナスは〈記憶を注ぐ者〉から教えられたことを、誰にも話してはいけなかったんだ! 彼女も日本で似たような何かを知ったのかもしれない!

もしそうだとして、どんな秘密かしら?

映画『ギヴァー 記憶を注ぐ者』予告編
The Giver Official Trailer (2014) Meryl Streep, Sci Fi HD

TO BE CONTINUE

次回の「なぜ児童文学なのか」は・・・

多くても、少なくても、本当に大切なことがなかなか伝わらない言葉。それでも人は、大切なものを誰かと共有したいと願う。
輪の内側にあって、輪の外側になかったものは何か? 輪の内側になくて、輪の外側にあったものは何か?

次回「なぜ児童文学なのか10」は、分かり合えなくて生まれる様々な秘密とウソを、数々の児童文学と芸術作品を通して考え、見えない音の力へシフトする(見えないもの さまざまなウソと秘密と音楽と)です。

続きはこちら↓

なぜ児童文学なのか10(見えないもの さまざまなウソと秘密と音楽と)
名前を言ってはいけないあのクリスマス ねぇ、『ギヴァー 記憶を注ぐ者』を読み終えたけど、主人公のジョナスが見た記憶にクリスマスのシーンがあるよね。 え、そんなシーンあったっけ? 映画ではハッキリ断定されにくい映像にしてあったのよ。小説でも “クリスマス” って文字は一度も出てこないわ。...

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