悪魔と道徳教育から見る映画『シックスセンス』(ネタバレ!)

芸術

前記事の続きです。

そうだったのか! カウンセリングと霊体験から見る映画『シックスセンス』(ネタバレ!)
前回の続きです。映画『シックスセンス』のネタバレを含む記事です。 小児精神科医のクロウは、最初は霊が見えるという少年の言葉を信用していませんでしたし、自分には手に負えないと投げ出しかけていました。 でも、「先生しかいない」と泣いて嘆願する少年を振り払えず、少年の言い分をそのまま受け止めることから再スタートを切ります。つまり少年が「霊が見える」と言う発言をそのまま受け入れたのです...

映画『シックス・センス』について述べた先日の記事で「次回書きます」と予告した件について書きます。映画『シックスセンス』のネタバレを含む記事です。

世の中全体を幸福に変えていく上で一番の問題は、相手が霊であれ生きている人間であれ、次の問いにどう回答できるかではないかという話です。

クロウ「霊が君に語りかけてくるのはなぜなのか、よく考えて欲しい」
少年「助けて欲しいから」
クロウ「そうだよ。先生もそう思う。どんなに恐ろしい霊も助けて欲しいんだ。助けてあげれば、もう現れない」
少年「どうやって?」
クロウ「話を聞く」
少年「助けるんじゃなく、誰かを苦しめろと言ったら?」
クロウ「そんなこと言わないよ」
少年「絶対確信ある?」
クロウ「わからない」

これ、実はその後に起きる事件の伏線になっています。

回収されなかった伏線?

主人公少年は、ある少女の霊から箱を渡されます。少年は亡くなった少女の葬儀に出向き、少女の霊から預かった箱を父親に渡します。父親がその箱の中身を確認したことで、残酷な事実が明らかになりました。

少女は母親に毒殺されていたのです。女の子の霊は母親に対する恨みを晴らすことができました。母親は罰を受け少なからず苦しむでしょう。

少年「助けるんじゃなく、誰かを苦しめろと言ったら?」
クロウ「そんなこと言わないよ」
少年「絶対確信ある?」
クロウ「わからない」

これから私が語ることは、とっても非常識な「悪魔」の視点に立って話を進めることを最初に断っておきます。私が言う「悪魔」とは、この母親のことです。

この悪魔母は、娘が生きていることが不幸の種だったのでしょう。娘が死んでいなくなることが、この「悪魔にとっての幸福」なわけです。

それと同時に、この事実が明らかになった時、自分の娘が病気で死んだと思っていた父親は、知ってしまった新事実によってもっともっと深い悲しみと苦しみを味わうことになりました。

映画では、その家庭にはもう一人の幼い女の子がいて、少女の霊は妹を守りたかったという形に話が収まっています。

わざわざそうしたのは、霊が復讐をしたがっていた存在とせず、誰かを守りたかったからという優しい存在に印象付けるためだと私は思います。

このエピソードの終着点をそこにフォーカスすることで、殺された少女が母への復讐を遂げる(母を苦しめる)という面が無いかのように視点を逸らすことができます。母親がどう処罰されたかも不明です。

この辺りをもしごちゃごちゃ深く掘り下げると、物語が2時間内に収まらないでしょうね。すっきり上質のエンディングへフォーカスすることも困難になるでしょう。だから映画自体はあのままで私は気に入ってます。

けれど、世の中にはいろんな複雑な家庭構成がありえます。上の娘は前妻との子で、下の娘は再婚でできた子という場合だったらどうでしょう?

悪魔の母親が殺したかったのは上の子だけだったかもしれません。その場合の「悪魔の母親の本音」は、きっとこんな感じじゃないでしょうか。

「黙っててくれれば、これから3人で幸福な未来が待っていたのに!」

それに加えて悪魔の仲間が、殺された子供にこんなことを言うかもしれません。

「蒸し返したって死んだ奴は生き返らないんだ。忘れろ。過去は過去、ウジウジしないで前を向け。生きている家族3人が幸せになるべきだ!」

「良いことだってあっただろう。その証拠に楽しそうに人形で遊んでたじゃないか。悪いことばかり持ち出してネガティブだ。育ててもらっておいて親を悪く言うなんて、ろくな子じゃない」

「普段優しいあの母親に嫌われるなんて、あの娘はよほど問題児だったんだろう」

「女にばかり子育てを押し付けるから、こうなったんだ。夫の苦しみは自業自得」

こんな感じに似たセリフ、あちこちで目や耳にしたことありませんか?

この類の理屈が、ある場合には被害者をさらに苦しめる言葉に変わるってことを私は感じているんです。

同じような理屈でも「誰に向かって、どういう算段で言ってんの?」ということ次第で、同一の言葉は善の言葉にもなれば悪の言葉にもなると思います。

明らかに不当に虐げられている人がいる状況の中で、その弱者に向けてさらなる悪意を持って言葉を突き刺そうとする悪魔さんたちが、この世にいないわけではありません。

そういう悪魔を含めて、世の中全体を幸福にするというのは、ほとんど不可能ではないでしょうか? 私はこのことに正解が見出せません。

幽霊の話から離れて、現実的な人間社会の問題にシフトします。「他人の不幸など知ったこっちゃねぇ。自分と自分の仲間が幸せになるためなら、他の奴らなんか不幸でも死んでも構わねぇ」という悪魔的思考の人間の存在にシフトして考えていきます。

ここで、アインシュタインの残した言葉を…

人間とは、わたしたちが宇宙と呼ぶ全体の一部であり、時間と空間に限定された一部である。わたしたちは、自分自身を、思考を、そして感情を、他と切り離されたものとして体験する。意識についてのある種の錯覚である。

この錯覚は一種の牢獄で、個人的な欲望や最も近くにいる人々への愛情に私たちを縛りつけるのだ。
(アルバート・アインシュタイン)

人が自分や近しい人のことばかり大切にして、他人の不幸に無関心になるのは、まさにこのような状態なのでしょう。

悪魔は「自分にとって邪魔な奴は死んでくれたら幸せ」と思っているのですから、そんな悪魔の幸福を実現するには、目障りな他者が死ななければなりません。悪魔は、その願いが一般的に認められないことは知っているので、世間体は善人面です。

映画『シックス・センス』の娘殺しの母親は、暗殺中の娘に対して心優しい母親を演じるなどお茶の子さいさいな悪魔です。決定的な証拠もなく告発されたら「濡れ衣を着せられたかわいそうな母親」を演じるのも上手なことでしょう。

「そんな悪魔さんたちは、平和な社会を作るのに邪魔だからいなくなってもらいましょう(死んでもらいましょう)」

と考えれば、悪魔さんはこう言うでしょう。

「『邪魔な奴は死んでくれたら幸せ』と思ってるのは、あなたも同じでしょ」

そして、悪魔のお仲間が言います。

「ブーメランw」

法律が役に立たない

「この世からいなくなれ」がダメならば、「こんな奴らの幸福は考えてやる必要は無い」程度にとどめたとしましょう。

すると悪魔は言うでしょう

「では、過ちを犯した人はみんな幸福にならないようにしましょう」

人生で何の過ちも犯さないパーフェクトな人なんてほとんどあり得ませんから「人を殺した者だけだ」と限定すれば、

「事件に大きいも小さいも無い!」と言うかもしれませんし、「わかった。じゃあ殺さない限り何してもOKね」と悪行の限りかもしれません。

「過失致死は?」「どんなに反省をしても償っても一生幸福になってはいけないの?」「加害者が未成年だったら?」と様々に問題は浮上します。

そこで細かく設定しようとすると、善と悪の境界をどこに引くかはかなり難しい問題となってきます。

力のある道徳を生み出すために

では、悪魔が産まれ育たない手段や、生まれても悪魔の心から改心する手段が、ちゃんとあるのでしょうか? あったら是非知りたいものです。そして家庭・学校・社会あらゆる教育の場面に取り入れるべきだと思います。これが「道徳」の大きな課題だと私は思っています。

以下は、本を読んで私が共感したり「大事だな」と思った言葉です。

 自分の子どもを立派な社会人にするために、まず親がしつけをする責任があるということは完全に忘れられているようである。しつけも何もかも学校に「おまかせします」と言い、何かまずいことがあると、学校を訴える。
(マークス寿子著 『とんでもない母親と情けない男の国日本』)

 

 子どもにどういうしつけをしていいかわからない、何をどうやってしつけていいかわからないという親には、大人と子どもは対等な人権を持つ存在であるなどと考えている、一見進歩的な親が多い。
 このような親は、子どもが暴力行為や反社会行為をしたときに、断固としてそれを止めたり、許さないといった態度をとることができない。
(マークス寿子著 『とんでもない母親と情けない男の国日本』)

 

 しつけというのは、流行で変わるものではない。嘘をつかないとか、生き物をいじめないとか、盗まない、殺さないなどという、いくつかの基本的なことをしつけと呼んで、これを子どもが小さいときに教え込むことが大切である。それは、生きていくための要領とか、ずるさというようなことではない。人間としてとても大切なことだという意味で常識なのである。しつけとは道徳である。
(マークス寿子著 『とんでもない母親と情けない男の国日本』)

 

文明人の運命は、いよいよ、どれだけ力のある道徳を生み出せるかにかかってきています。
(アルバート・アインシュタイン)

 

人間にとって最も大切な努力は、自分の行動の中に道徳を追求していくことです。わたしたちの内面的なバランス、そして、存在そのものが、そのことにかかっています。行動に現れる道徳だけが、人生に美と品位をもたらします。
(アルバート・アインシュタイン)

さて、キリストは「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と言ったとか。「汝の敵を愛せよ」とも言ったとか。

こういうのは正常な良心を持つ相手になら有効かもしれませんが、キリストが身をもって教えたではないですか、敵を愛せど許せど、良心のない者は人を殺すのが平気だと。

それに私は知ってしまったのです。良心の呵責など持ち合わせない人々がいることを。

金を崇拝する陰の集団は、道徳を一切学ばないようにして、世界を征服するためにずっと段階的に計画を進めてきたようです。

そういう人たちがSNSで群れて「赤信号みんなで渡れば怖くない」を実施中。もちろん表向きは悪人に見えません。

2020年は東京オリンピック。海外からたくさんの人が日本に訪れるんでしょうが、良い人も悪い人も入り乱れて入国してくるわけですから、気をつけないといけませんね。

次回はそのあたりの話を中心に、話題を歴史と宗教の観点にもう一度戻していきます。

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悪人が儲けるための隠された仕組みとは?
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