なぜ児童文学なのか? その2

宮沢賢治

前記事なぜ児童文学なのか? の続きです。

なぜ児童文学なのか?
今回の記事は、宮沢賢治の童話や、ミヒャエルエンデの児童文学や、エンリケ・バリオスのアミ三部作などから、私が持った疑問「なぜ児童文学なのか?」ということが主題です。 のっけに1つの大きな理由となるものをあげたいと思います。 「子どもの童話のように、おとぎ話のように書くんだ……そうでないと人はみな君をうそつきか頭がおかしいんだと思うよ。それに子どもに向けて書くべきだ。ー以下略ー」(エン...

 

やみにきらめくおまえの光、
どこからくるのか、わたしは知らない。
ちかいとも見え、とおいとも見える、
おまえの名をわたしは知らない。
たとえおまえがなんであれ、
ひかれ、ひかれ、小さな星よ!

(アイルランドの子どもの歌より)

↑ミヒャエル・エンデ作『モモ』は、この前書きから始まります。

 

 

おまえの名をわたしは知らない…

名前といえば…
↓『戻ってきたアミ 小さな宇宙人』の中にも、こういうのがあります。

 

もう一つの結論または続・結論
(だって、すべてに名前をつけなくちゃいけないから……)

それほど遠くない海岸に、高くて硬い岩がある。その岩のてっぺんに、誰だか不思議な人が翼の生えたハートのマークを刻み込んだ。でも、それを見つけることができるのは、ただ、汚れなく無邪気に遊んでいる人だけだという。
そして、残念なことには、ほんのわずかの子どもたちしかそれを見つけることができなかった。子どもは大人よりもみな敏捷で身が軽いにしても、子どもの中には汚れなく遊ぶ子もいればとても恐ろしい遊びをする子もいる。
(エンリケ・バリオス作『戻ってきたアミ 小さな宇宙人』より)

 

(だって、すべてに名前をつけなくちゃいけないから……)と書かれている理由が、私にはハッキリと分からずにいます。

 

 

名前をつけたとたん、恐ろしい遊びをする人にも見つかってしまうということが言いたいのかなぁ?

だとすると、冒頭のアイルランドの子どもの歌にある ”名前も知らない小さな星” の輝きを見つけた子どもは、きっと汚れがない子どもだね。

 

そういえば、やっぱり児童文学のハリー・ポッターでも ”名前を言ってはいけないあの人” とかいたじゃない? あの怖い魔法使い…えっと、ヴォ…ヴォー…ヴォル

その名前を口にすると厄介なことになるかもですよ!

はっ、きらめく光って…もしかして、イっ、イル…イル…

イルカ

あっ! ル、ル、ルシ…

ルシル・ポール ルシル・ポール

では先に進みましょう

むかし、むかし、人間がまだいまとはまるっきりちがうことばで話していたころにも、あたたかな国々にはもうすでに、りっぱな大都市がありました。(ミヒャエル・エンデ作『モモ』より)

これはミヒャエル・エンデ作『モモ』の物語の一番最初の二行です。

 

今とはまるっきり違う言葉って「〇〇でござる」とか「〇〇にてそうろう」とか言ってた頃ってこと?

それ日本でしょう?

きっと、もっともっと古いわ。なぜなら2ページ目にはこう書かれているもの。

 

それいらい、いく世紀もの時が流れました。そのころの大都市はほろび、寺院や宮殿はくずれおちました。風と雨、寒気と熱気に、石はけずられ穴があいて
(ミヒャエル・エンデ作『モモ』より)

 

風化で石に穴があくっていうたら、そうとう気が遠くなるような年月やないの!

『モモ』って、そんな大昔が舞台なんだ

そうじゃない。それほどの年月が経過した遺跡で暮らしている現代の少女の物語だよ。

そうよ。2ページ目でもう何世紀も経って大都市が滅んでんのよ。何言うてんの。

……

遺跡で暮らしてるって、家は? 家族は?

気になるなら読みなはれ

 

古い円形劇場の遺跡で暮らし始めたモモを見つけた大人たちは、みな同じように彼女の家や家族のことを聞いてる。モモはどうやら身寄りがいないみたいだよ。

まぁ! 『ホームレス中学生』みたいなことやないの! その女の子、歳はいくつなの?

数を習ったことがなくて、自分の歳もわからないのよ。

でも、最初に「百」と答えてるんだ。これは親日家だったミヒャエル・エンデが「モモ」の名の由来をそれとなく披露しているのかもしれないね。

なるほど伝説の歌手の百恵ちゃんの ”モモ” も「百」という字だわね

あんた何わけのわからんこと言うてんの。

それじゃ、さくらももこやももちはどうなんのよ?

だったらモモンガはどうなるんだよっ!? 

……

楽しんだかい?

それで、結局なぜ児童文学なのかってテーマは、どうなってるのかな?

そうよ、”常識” という偏見に毒されていない子どもに、サルでもわかるように簡潔に説明する以外の目的って何よ?

 

『モモ』という物語には、とても恐ろしくて冷たい “灰色の男たち” が出てきます。

この男たちは他人の時間を奪い取って、その時間を利用して生きています。

彼らは他人から時間を奪うことができなくなると、生きることができなくなります。

 

なるほど、わかった!

なによ、はよ言うて

恐ろしくて冷たくて、他人の時間を奪っているような人たちに読まれにくくするためなんじゃない? だって、そういう人は童話を好んで読んだりしていないと思うから。

うん、そうだよ。そういえば宮沢賢治の童話にも恐ろしい話やいじめの話がある。

そうなの?

『注文の多い料理店』は、レストランの客が食事を期待していたら自分たちが食べられそうになる話だし、『毒もみのすきな署長さん』は違法行為を取り締まるはずの署長さんが違法行為をしていて死刑になるの。

あらまぁ!

でも、全く改心せずにあの世でも同じことを楽しもうと思うのよ。

なんやの、その署長さん、呆れるわー!

物語の中では “みんなはすっかり感服しました。” となっているんですよ。

人は簡単に変わらないってことなのかな?

なに言うてんの、警察が法律を守らないでどうすんの!?

許せんわ

大人には “常識” があるからね。

それどういう意味? おばちゃんの偏見とでも?

署長さんが隠れてやっていたことは、山椒の実を揉んで川に流して魚を獲ることです。

あら、そのくらいのことなら許してあげても… 山椒の実ぐらいで、まぁ… 法律の方がおかしいんと違うの?

ルールは破るためにあるんだ!

いやいや、あかんて! 少なくとも警察が…

守っている規則について考え直してみることも大切かもしれない。

でも、何でもかんでもルール破ってたら怖いわぁ

宮沢賢治の童話『蜘蛛となめくじと狸』は、他人をだましたりバカにしたりして食い物にしていた三人が、競争して三人とも死んでしまう話です。

なにそれ、まるで『バトル・ロワイヤル』やないの!

すさんでるわぁ。その『蜘蛛となめくじと狸』って童話、なんでそんなもん子どもに向けて書いたのかしら?

そこには現実世界の真実が隠れているからじゃないかしら?

いつか大人になる子どもたちへの警告や告発かもしれないね。そういう大人にならないようにっていう…

だけど、どういうわけか憎めないし笑えちゃうのよね『蜘蛛となめくじと狸』。狸の「なまねこ、なまねこ」大好き。

人間の醜さをも愛すべきものだと教えてんじゃねぇか?

宮沢賢治
宮沢賢治

あのころはすきとほる冷たい水精のやうな水の流ればかり考へてゐましたのにいまは苗代や草の生えた堰のうすら濁ったあたたかなたくさんの微生物のたのしく流れるそんな水に足をひたしたり腕をひたして水口を繕ったりすることをねがひます

あの狸は、きっと神官のような仕事をしていたんだろうね。

まぁ、神様に仕える身分なのに、他人をだまして食い物にしてたの?

なめくじだって林の中で一番親切だと評判だった。

あらまぁ…

人を職業とか評判で簡単に信用しちゃダメね。

おばちゃんはだまされへんから!

おばさん、本当にそうかしら?

では、ここでちょっと『モモ』に出てくるなぞなぞを出しますね。

 

三人のきょうだいが、ひとつの家に住んでいる。
ほんとはまるでちがうきょうだいなのに、
おまえが三人を見分けようとすると、
それぞれたがいにうりふたつ。
一番うえはいまはいない、これからやっとあらわれる。
二番目もいないが、こっちはもう家から出かけたあと。
三番目のちびさんだけがここにいる。
それというのも、三番目がここにいないと、
あとのふたりは、なくなってしまうから。
でもそのだいじな三番目がいられるのは、
一番目が二番目のきょうだいに変身してくれるため。
おまえが三番目をよくながめようとしても、
そこに見えるのはいつもほかのきょうだいだけ!
さあ、言ってごらん、
三人はほんとはひとりかな?
それともふたり?
それともーーーだれもいない?
さあ、それぞれの名前をあてられるかな?
(ミヒャエル・エンデ作『モモ』より)

 

はは〜ん、そういうことね…

三人なんでしょ、わかった。

 

蜘蛛となめくじと狸!

違うっ! まだ続きがあるの

 

それができれば、三人の偉大な支配者がわかったことになる。
彼らはいっしょに、ひとつの国をおさめているーーー
しかも彼らこそ、その国そのもの!
その点では彼らはみなおなじ。
(ミヒャエル・エンデ作『モモ』より)

 

こんな難しいなぞなぞが児童書に書いてあんの?

(だって、すべてに名前をつけなくちゃいけないから……)

答え、わかります?

ああもう、考える時間もったいないから本買うて読むわ

 

答えはなんでしょう?

TO BE CONTINUE !

 

なんやのこの人、さっきから宣伝ペタペタ貼り付けて

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なぜ児童文学なのか? その3
前記事の続きです ミヒャエル・エンデ作『モモ』でマイスター・ホラがモモに出したなぞなぞは、この物語で「時間」がひとつのテーマになっていることに気がつけば、解くのは意外と簡単です。 ですが、このなぞなぞに触れた時、その答えが “この世界の偉大な支配者” “この世界そのもの” という考えに出会った時、なんとも言えない気持ちになりました。 モモ 時間どろぼう...

 

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