なぜ児童文学なのか? その3

宮沢賢治

前記事の続きです

なぜ児童文学なのか? その2
前記事なぜ児童文学なのか? の続きです。 やみにきらめくおまえの光、 どこからくるのか、わたしは知らない。 ちかいとも見え、とおいとも見える、 おまえの名をわたしは知らない。 たとえおまえがなんであれ、 ひかれ、ひかれ、小さな星よ! (アイルランドの子どもの歌より) ↑ミヒャエル・エンデ作『モモ』は、この前書きから始まります。 モモ...

ミヒャエル・エンデ作『モモ』でマイスター・ホラがモモに出したなぞなぞは、この物語で「時間」がひとつのテーマになっていることに気がつけば、解くのは意外と簡単です。

ですが、このなぞなぞに触れた時、その答えが “この世界の偉大な支配者” “この世界そのもの” という考えに出会った時、なんとも言えない気持ちになりました。

小学生の頃「宇宙の果てはどこまで続くのか?」と考えて、「もし限りがあるのだとしたら、その外側は何があってどうなっているのか?」なんて思うと、もう頭が混乱して気が狂ってしまうのではないかと思ったことがあります(^o^)

「時間」というものについて改めて考えてみると、これも宇宙を考えるのと同じようにとりとめがなくて、その「始まり」や「終わり」を考えるのは、答えのない問いのようで不思議な気持ちになりました。

「時間」というものを考えた時、「この世界=宇宙」を考えることにとても似ているのだということに気づかせてくれたのが児童文学『モモ』でした。

アインシュタインがこんな言葉を残しています。

 

アルバート・アインシュタイン
アルバート・アインシュタイン

過去、現在、未来の区別は、どんなに言い張っても、単なる幻想である。
(アルバート・アインシュタイン)

 

もし、この宇宙からすべての物質が消滅したら、時間と空間のみが残ると、かつては信じられていました。しかし、相対性理論によれば、時間と空間も、物質とともに消滅するのです。
(アルバート・アインシュタイン)

 

後者の方なんて私はなぜだか泣いてしまいたくなります。

ちょうど『モモ』に書かれている↓この部分みたいに

 これほどうつくしい花があろうかと、モモには思えました。これこそすべての花の中の花、唯一無比の奇跡の花です!
 けれどこの花もまたさかりをすぎ、くらい水底に散って沈んでゆくのを見て、モモは声をあげて泣きたい思いでした。

アルバート・アインシュタイン
アルバート・アインシュタイン

それでも、永遠なるものに関心を抱くのがいちばんいいでしょう。というのは、それのみが、人間社会に平和と平穏を回復させる精神の源だからです。
(アルバート・アインシュタイン)

 

モモが見ているのは “時間のみなもと” で繰り広げられる光景です。宮沢賢治が、ブルカニロ博士登場版の『銀河鉄道の夜』でクライマックスに書いていたことも、ミヒャエル・エンデが『モモ』でマイスター・ホラを登場させて見せる時間のみなもとも、とても似ていると私は感じました。

『銀河鉄道の夜』( ブルカニロ博士 登場版 )とミヒャエル・エンデの『モモ』
前記事の続きです↓ 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にはいくつかのバージョンがあります。 大別すると、ブルカニロ博士が登場するバージョンと登場しないバージョンがあります。 一般的に知られているのはブルカニロ博士が登場しない物語です。 一般普及のバージョンを読んで私は衝撃を受けたのですが、そのすぐ後にブルカニロ博士が登場する旧版を読んで、またまた衝撃を受けたのでした。 ...

 

『モモ』には、最後に「作者のみじかいあとがき」という章があります。

そこに↓こんな記述があります。

わたしが長い旅に出ているときのことでした(いまでもその旅はつづいていますが)。ある夜、わたしは汽車でひとりのきみょうな乗客とおなじ車室に乗り合わせました。きみょうと言ったのはほかでもありません、そのひとがおよそ年齢のさっぱりわからない人だったからです。(中略)いずれにしてもこのひとが、その夜の長い汽車旅のあいだに、わたしにこの物語を話してくれたのです。

 

↓そして宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』(ブルカニロ博士登場版)にはこんな記述

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてさうなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへと いっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早く そこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」

 

ミヒャエル・エンデと宮沢賢治はきっと時空を超えた同じ汽車に乗り合わせて話をしたんだと、そんな気がしてしまうのです。

「ブルカニロ博士はアインシュタインかも」私は時々そう思います。

 

アルバート・アインシュタイン
アルバート・アインシュタイン

想像力は、知識よりも大切だ。
知識には限界がある。
想像力は、世界を包み込む。
(アルバート・アインシュタイン)

 

わたしに畏敬の念をいだかせるものはふたつ。
星がちりばめられた空と内なる倫理的宇宙。
(アルバート・アインシュタイン)

 

宮沢賢治『星めぐりの歌』 交響楽風 Star Circling Song

 

TO BE CONTINUE !

 

ちょっと待てよ。『モモ』に出てくる灰色の男たちはどうやって時間を盗んだんだよ?

あんた、その方法で人の時間奪うつもりやないの?

おばちゃんは、もう知ってる。でも聞きたいこといっぱいあるわ。けど、作者のあとがきには「わたしにはそれにおこたえすることができないのです」ってあるじゃない。

フレデリック・バックというアニメーション作家をご存知ですか? 『木を植えた男』は有名な作品です。

 

むかし絵本になってるのを見た覚えがあるなぁ。

たしかスタジオジブリが紹介してる。でも灰色の男たちと関係あるかな?

彼の別のアニメーション『Illusion』で、灰色の男たちの手口に似たものが描かれていますよ。だまし取られるのは時間だけではなく自然環境もだということがハッキリ伝わって来るアニメーションです。

セリフもナレーションもなくて言葉の壁がないアニメーションよ

Frédéric Back – Illusion (1975)

 

「じゃ、あれは…」
今まで、てっきり月だと思っていた空の星を指さして聞いた。
「地球だよ」
(中略)
不思議なことに、記憶の奥にしまい込んであった思い出が次々とわき出てきた。
子供の頃よく遊んだ小川、苔で一面に覆われた壁、庭に飛びかうミツバチ、夏の午後の牛車……それらがみんなあの星の中につまっている。みんなあの小さな水色の球の中につまっているのだ……。
(エンリケ・バリオス作『アミ 小さな宇宙人』より)

 

ジャーナリストで京都造形芸術大学芸術学部教授でもある日本初の宇宙飛行士、秋山 豊寛さんは、丸い地球を宇宙から見て戻ってきた後「お金や権力や名声などと云ったものが、あまりにもちっぽけで、そういったものに興味が湧かなくなった」と、米の無農薬栽培を手掛ける一方で、環境についての講演や本の執筆活動もしているそうです。

TO BE CONTINUE !

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なぜ児童文学なのか? その4
前記事の続きです  毎日、毎日、ラジオもテレビも新聞も、時間のかからない新しい文明の利器の良さを強調し、ほめたたえました。こういう文明の利器こそ、人間が将来「ほんとうの生活」ができるようになるための時間のゆとりを生んでくれる、というのです。ビルの壁面にも、広告塔にも、ありとあらゆるバラ色の未来を描いたポスターがはりつけられました。絵の下には、次のような電光文字がかがやいていました...

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