日本は世界一のお金持ち国! なのになぜ?

宮沢賢治

日本は世界一のお金持ち

去年の10月か11月くらいにYouTubeで大西つねきさんという方を知りました。

共感することが多かったので、ずっと注目していたのですが、最近新しい本を出版されたということで早速買って数日前にやっと読み終えたばかりです。

『私が総理大臣ならこうする』というタイトルの本ですが、概ね大賛成できる内容でしたので、ほんの少しでも拡散のお手伝いになればと思いました。

2018.11.12「新しい著書のご紹介」大西つねきの週刊動画コラムvol.51

さて今回の記事のタイトルに添ったところをまず最初にどんと抜粋させていただきます。

つまり、皆さんが間接的に政府にお金を貸していることになります。貸しているのだから、これは「資産」です。1人あたり8000万円の資産であって、借金ではない。(中略)あくまでも政府の借金であることをまずご理解いただきたいと思います。そして逆に、国家として見れば日本は世界一のお金持ち国なのです。

(大西つねき著 『私が総理大臣ならこうする』より)

これは大西さんの著書の「第1章 現状認識」の最初の項目「国の借金の大ウソ」に示されるものです。

↓忙しくて時間のない方や目の不自由な方に、お金のトリックについて気づいてもらいやすい短めの動画を見つけましたので、こちらも載せておきます。

DVD「目からウロコの経済の話」〜予告編

灰色の男たち

『私が総理大臣ならこうする』を読んでいったら、大西さんもミヒャエル・エンデの『モモ』を読んでらっしゃることを知りました。

日本にも縁の深いミヒャエル・エンデ。彼は世界的なベストセラー『モモ』の著者として有名ですが、実はその『モモ』が、一般的には童話とされていますが、今のお金の発行の仕組みのおかしさ、そして金利の恐ろしさを知らせるための警告書であったことがわかっています。

(大西つねき著 『私が総理大臣ならこうする』より)

また、大西さんは『私が総理大臣ならこうする』の中で次のように述べられています。

借金の担保は我々の労働時間であり、それが無限に増え続ければ、時間も無限に奪われ続けることになるからです。しかし、実際は我々の時間も有限で、無限に奪われることも不可能なのです。こうして無理に無理を重ねた挙句の果てに、我々は貴重な人生の大半を「労働」という名のお金への隷属に費し、命をすり減らし続けています。エンデはそれを予見したからこそ『モモ』を書いたのであり、私はその解決策を示すために本書を書いているのです。

(大西つねき著 『私が総理大臣ならこうする』より)

興味ある方は是非『私が総理大臣ならこうする』を読んで、大西つねきさんのビジョンと、未来への解決策をご確認ください。

私個人の感想を述べると、読んでいる途中で「そうは言っても・・・」「わからなくはないけど、一方では・・・」という気持ちになる部分が時々出てきました。しかし大抵はその後にその疑念や疑問を解消する説明が出てきたので、概ね大西さんの意見に賛同できました。

非常に長期的で大きな視点から、現状を見据えて現実的に一歩ずつ段階的に改善していく考え方に見受けられました。

不安や疑問が一切ないわけではありませんが、少なくともこれまで散々公約を破ったり国民を騙してきた現行の政治団体や政治家を応援するくらいなら、私は大西さんを応援してみたいです。

憲法改正 言葉のトリックと政治

憲法改正が迫っているらしいですが、大西つねきさんは憲法全文の書き換えについて「人生やこの世の本質にちゃんと理解がある文豪が書いた名文を、小学生の作文で置き換えるようなもの」とおっしゃってます。

本当にそうかどうかは確かめてみないとですが、憲法全部を読む暇を、誰かくらはい。

2018.12.17「憲法改正について」大西つねきの週刊動画コラムvol.56

2:16から表示される憲法の文章をよく読んでください。大西つねきさんの解説以外に、私はすごく気になっていることがあります。

【現行条文】

憲法13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

【改正案】

第13条(人としての尊重等)
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

それは「消えた文字と言葉は何か?」です!

大西つねきさんは、自分自身でしっかり考えることを奨励していらっしゃる方なので、大西さんの言うことをただ鵜呑みに受け入れるのではなく、私自身も13条だけでも独自に考えてみたいと思います。

消えた文字と言葉

消えている文字と言葉は「個」「個人」「共」「公共」「福祉」「必要」です。

これらが消えたことの裏にある意図は、善意と悪意の両方の視点から考えなければならないと私は考えています。善意ゆえに消えたと仮定するなら、なぜ消えたのか? 悪意ゆえに消えたと仮定するなら、なぜ消えたのか?

善意ゆえに消えた場合ですが、「善意ならばあまり心配する必要がない」と思う方もいるかもしれません。しかし、消えている言葉からして私の直感的には心配です。

善意ゆえに消えている場合、私は消えている単語に足してみたい言葉があります。それは「事業」です。

「個人事業」「公共事業」「福祉事業」

どう思いますか?

詐欺行為をしている個人事業主、無駄な公共事業、善人面して実は利用者や就労者が不幸な目に遭っている福祉事業・・・そんなものが実際にある中で、これらに該当する存在が法律を逆手にとって私腹を肥やし、真面目でおとなしい弱者を苦しめ続けているとしたら、そのために消された文字と言葉なのかもしれません。

しかし、それならそれでちゃんと国から説明が欲しいところです。が・・・悪徳弁護士などを筆頭に悪知恵の働く連中の餌食になるのを恐れて説明さえできないのかもしれません。

完璧に消え去っているのは「個」「共」「福祉」「必要」

まず「個」に注目します。

個人の自由

「個人の自由でしょ!」なんて言う人いますよね。私も言いたくなる時はありますが・・・。

この「個人の自由でしょ!」は実は怖い側面があると思っています。

知識人の中には「法律を犯す自由だってある」「人を殺す自由もある」と公言する人さえいます! そう主張する書物があるんです。大学ではレポートの課題として読まされたこともあります。

法律には悪法もあるので「法を犯す自由」について闇雲に反対はしませんが、「人を殺す自由」まで平気で言いだされると、ちょっと怖くないですか?

で、条文に「自由」の文字は消えてないんです。「自由」というのは「責任」と対になっていると思うんですが、条文には「責任」なんて言葉は最初からどこにもありません。

その代わり「公」「反しない限り」という言葉が一つの歯止めになっています。つまり自由を制限する事項であり、これに反すると刑罰を受けるのが一般的です。

ですが「人を殺す自由」などとのたまう知識人の手にかかったら、「社会に何の利益ももたらさない人は殺されても仕方がない。保護を受ける権利はない」とか言いそうです。

そして社会の大多数が「そうだそうだ役立たずは死んじまえ」と言ったら、どうなるんでしょうね?

真面目な話、みんなにデクノボーと呼ばれたらどうなるの?

宮沢賢治 『雨ニモマケズ』 Unbeaten by Rain

 

ここで「公共の福祉に反しない限り」から「公益及び公の秩序に反しない限り」に変わろうとしている意図が大いに気になるところです。そこはひとまず置いておいて、「個」の問題にとどまります。

身勝手な人間が「個人の自由でしょ!」と言って好き勝手している姿を想像してみてください。私が想像する困ったケースをひとつ。

重要文化財にもなりそうな歴史的遺産を持つ街並みに、あるとき非常に性的なアーティストが移住してきて、ド派手なショッキングピンクの豪邸を建てたとしましょう(笑) 街の皆さんは、街の景観が台無しだと怒り心頭。しかしアーティストは「私は好きなところに好きな家を建てて住む権利がある。人の自由だ!」と主張。

歴史的にも学問上も重要な資料となり得る街でしたが、一般人はほとんどそれに興味を持つこともなく、その街は貧しく街の景観保存も危うい状態。

一方、ぶっ飛んだショッキングピンクの家を建てたアーティストは世界的にも有名で大金持ちだったとします。

ショッキングピンクの豪邸は話題になり、貧しかった街に観光客が訪れるようになって、かなりの額のお金を落としてくれたとしたら、どう考えるべきなのでしょうか?

この際、優先されるべきは「人の自由」でしょうか? 「街全体の金銭的利益」でしょうか? 「文化遺産」でしょうか?

なんかザワつきませんか?

憲法改正では13条にあった「個人」が「人」に変わるとのこと。

このアーティストが「人の自由でしょ!」と自由奔放でいるシーンを想像してみた後に、その人のセリフを「人の自由でしょ!」に変えてみてください。

どうでしょうか? 「人としてどうかと思うよ」と反論しやすくなりませんか?

「人の道に外れている」
「てめぇら人間じゃねぇ!」

などの言葉もありますが、これを「個人」という言葉に置き換えてみます。

「個人の道に外れている」
「てめぇら個人じゃねぇ!」

それこそ「個人の勝手だろ」「いや、個人だろうがよ!」と突っ込まれそう。

♪人はみな 一人では生きてゆけないものだから

とうたう「ふれあい」という歌があります

ふれあい/中村雅俊

「個人」と比べると「人」の方が繊細で深みを感じてしまうワタクシ。

言葉の持つイメージって、漢字一つでなんだか違ってくるものですね。

 

さて、ところで先述のショッキングピンクの豪邸のアーティストが外国人で、可愛らしい女性で、障害のある家族を抱えていて、もともとの問題をはぐらかすように「外国人差別だ!」「障害者いじめだ!」と騒ぐような人だったら、どう思いますか? 面倒で、ショッキングピンクの家を街の景観から取り除くのは難しくなるかもしれませんね。

それでいて「日本は素晴らしい国!」「日本大好き!」と日本アゲアゲ作戦には抜かりがないとしたら、どうでしょう?

私は、障害のある弱い立場の方を支えることは大切だと思っています。しかし意外と冷淡な弱者やズルい弱者もいるんです。(←コレ多分、公的立場にいる方々がその真実を最も伝え辛いところではないかと私は想像してます)そうでないと生き辛い弱者なのかもしれませんが・・・私は本当の意味で平等で慈愛に満ちた社会が訪れることを願います。この辺りの話は、またいつか書くかもしれません。

 

個人の自由の話に戻ります。有名無名問わず1アーティストの個人の自由のために、まだ世界からその価値が認識されていない伝統の街は、「公」の利益にならないなら崩されてもいいでしょうか?

↓有名アーティストじゃなくても、たとえば、こんなことがまた起きても・・・???

これはスペインの教会にあったキリストのフレスコ画が、素人のおばあさんの手によって修復(?)された事件です。厳密に言えば「塗りつぶし改ざん」です。

パソコンで製作したデジタル作品ではないのですよ。たったひとつしかない19世紀の文化遺産のオリジナルが塗りつぶされたのです。これは文化遺産の破壊です。

おばあちゃんの善意だからOK?

オリジナルを描いた画家はとっくの昔に死んでるからOK?

イエス・キリストと教会だから何しても許してくれる?

おばあちゃんも教会も街も全体が儲かったからOK?

オリジナルがもし国宝級の文化遺産だったら?

 

私は修復をしたおばあちゃんはともかく、このキリストの絵を保存管理する責任のあった人の判断と神経を疑います。宗教問題はともかく、これは一人の画家エリアス・ガルシア・マルティネスが制作に費やした時間と魂に対する冒涜です。いくらそれが故人であれ、そのことに心の痛みや罪を感じない教会など・・・そのあとは言いますまい。

絵画というものは、『ダ・ヴィンチ・コード』のように時に独特の暗号的メッセージが隠されていることもあります。絵の下地に全く別の絵が隠れて眠っていることもあります。

素人の修復改ざんによって、そういうものが見つけられないまま永遠に葬られてしまう可能性だってあるのです。

 

次は消えた文字「公共」「福祉」について

公共と公益

まず「共」という文字が条文から完全に消えて無くなっているのですが、「共に」という概念が失われたことになります。

普通の人々が「共に」協力し合うことなら、平和的で良いイメージですよね。

けれども、わかりやすく極端な思考実験をさせていただきます。

この日本国に実は神様(いい奴代表)が一人いらっしゃったとします。そして悪魔さん(悪い奴代表)もいらっしゃったとします。

神様と悪魔さんはうまく「共に」平和な日本国を作り維持していけるでしょうか?

神様が「仲良くしましょうよ」とどれだけ訴えたところで、悪魔さんは憎たらしく悪いことをする個性の持ち主ですから、神様がどんなに努力しても悪魔さんは嫌がらせと身勝手を繰り返して神様を困らせ続けます。それが悪魔さんのサガなのです。

悪魔さんが言います。

「この世は陰と陽で成り立っているんですよ。光あるところには影があるんです。私たちはいつもにあるんですよ。うまくやっていきましょうね」

(by 悪魔)

困りましたね。こんな「共に」をどう思いますか?

いい奴と悪い奴の操る人形ゲームを思い出しました。

 

そこで大事になってくるのが「公共の福祉」の解釈の問題です。大西つねきさんは「公共の福祉」の定義を「他の個人の権利」とおっしゃってます。(*大西さんの解釈からも「共に」の概念はありません)

ただし、そう定義しても、ショッキングピンクの家のようなことが実際に起きようとした場合、貧しい街の人々と有名海外アーティストは裁判でどちらが勝つでしょうか? ここが私はとても重要だと思っています!

(*実際には条例などで守られている場合が多いはずです。ただ、見過ごされている貴重な文化価値がまだ認定もされずに残っている場合、私が考えるような危険は有り得ると思います)

広辞苑によると「公共の福祉」とは「社会構成員全体の通の利益」となってるようです。そして「基本的人権との調和が問題にされる」とありました。

そうすると、善意のおばあちゃんによる教会の修復画は、おばあちゃんも教会も街もお金が儲かったから「社会構成員全体の共通の利益」になったと考えればいいのでしょうか???

たとえ貴重な国の文化財であろうが、街全体が儲かるなら、国の文化財なんてどうでもいいでしょうか?

条文から完全に消されそうな言葉「公共」とは、広辞苑によれば「社会一般。おおやけ。」だそうです。う〜ん、私にはつかみどころがイマイチな定義。

一方「公益」を広辞苑で調べると「国家または社会公共の利益。広く世人を益すること。」とありました。イメージしやすいですし、定義の中にちゃんと「公共」の言葉が含まれているんですね!

ただし、この定義には「国家」という言葉が登場しましたよ!

下手なおばあちゃんの修復画みたいな問題の場合、その町全体の利益になったとしても、国全体としてみたときに損益とみなされれば禁止されるべき事柄になりますね。

私が考えたショッキングピンクの家のケースも、もし町民がみんな買収されて「ま、いいか」となってしまっても、国全体として利益にならないと判断されれば規制をかけることができます。

 

では「公(おおやけ)とは何でしょうか?

(「大宅」「大家」の意)
①天皇。皇后。中宮。
②朝廷。政府。官庁。官事。
③国家・社会または世間。
④表だったこと。公然。
⑤私有でないこと。公共。公有。
⑥私心のないこと。公明。公正。
⑦金持。財産家。

ガ〜〜〜ンっ! 知らなかった!! 😲

「公家(くげ)」の「公」って、そうですね。それにしても意味が多すぎるではありませんか!

何だかこれまで

④表だったこと。公然。
⑤私有でないこと。公共。公有。

⑥私心のないこと。公明。公正。

のイメージばかり持ってました。

公という文字には結局「国家・社会または世間。」が入っているではないですか。それにしても・・・

①天皇。皇后。中宮。
②朝廷。政府。官庁。官事。
⑦金持。財産家。

なんてものがあるとは!

⑦金持。財産家。は、いったいなぜに? 貧乏人は「公」に入らないってことですね。童話『モモ』の孤児で貧乏な少女モモも、「公」から仲間はずれです。

となると・・・「公共」「お金持ちと一緒に」みたいな雰囲気で、「公益」「お金持ちの利益」みたいな雰囲気ですね。

もしこの理屈が一般化でもされたら、13条の「公共の」「公益及び」へと変わると、お金持ちの利益しか考えない法律になってしまうかもしれませんね!

まさに現代がその状況なのに、さらにそれを強固にすることに?

それでどうにも仕方なく昔の百姓一揆みたいに暴動でも起きそうになったなら、13条に加えられようとしている「秩序」を理由に「貧乏人はおとなしく死ね!」的な・・・

いやだなぁ

 

さて次は、消された文字ではなく追加された文字「秩序」についてです。

新しく加えられそうな「秩序」

個人自由が「人を殺す自由もある」などと暴走するとき、条文に新しく加えられそうな「秩序」というものは大切な気がします。

「国家の利益」が入ってきた場合、もっと単純にこう問えます。

さて日本人のあなた、あなたが生まれて育った日本という国家が弱体化し、なくなっても構いませんか? 

私は今の時代ではまだ嫌です! 日本以外の国がそんなに日本より良いとも感じられないし、日本ならではの良い文化伝統も大事にしたいですから! それにまだ世界には国境も戦争も差別偏見も残っているのに、日本人どこでどう暮らす?

そうすると「社会構成員全体の共通の利益」と定義される『公共の福祉』より「国家または社会公共の利益。広く世人を益すること。」と定義された『公益』の方がより良いような気も・・・。

ただし、もしも日本が何かのきっかけで独裁政治(それもファシズムによる恐怖支配の)国家になってしまった場合は、そうも言えなくなりますね。

国家や社会が「お金持ちの利益」しか考えてくれなくなった場合、少女『モモ』みたいな人には、「お金持ってないんでしょ、君は仲間はずれ。死んで」と平気で言う世の中になってしまうかもしれません。

 

では、もう一度「個人」というものについて立ち戻ってみます。

個人とは?

大西つねきさんがおっしゃるには『公共の福祉=他の個人の権利』ということだそうですが、では『個人』の定義を広辞苑で調べてみます。

「国家または社会集団に対して、それを構成する個々別々の人。単一の人。一個人。私人。」

だそうです。

個人とは、国家または社会の構成員ということでしょうかね。

そうならば、「個人」というものには、常に「国家」または「社会」がくっついていることになります。

そこで私が少しぞわぞわしてしまうものがあります。それは・・・

国家または社会の構成員ひとりひとりの価値はどう測られるのか?

個人の値うち

はい、ここで以前の記事「なぜ児童文学なのか? その5」で抜粋したことのある『モモ』からの記述を、もう一度

 「第一の問題はこうだ。」と、灰色の紳士はまた話し出しました。「きみがいることで、きみの友だちはそもそもどういう利益をえているかだ。なにかの役に立つか? いや、立っていない。成功に近づき、金をもうけ、えらくなることを助けているか? そんなことはない。時間を節約しようという努力をはげましているか? まさに反対だ。きみはそういうことをぜんぶじゃまだてしている、みんなの前進をはばんでいる! たぶんこれまできみは、それに気づかなかったんだろうね、モモーーーいずれにせよ、きみがいるってことだけで、きみは友だちに害悪を流しているんだよ。そうだ、そのつもりはなくとも、きみはほんとうはみんなの敵なんだ! それなのにきみはやっぱり、だれかが好きだなんて言うのかね?」
モモはどうこたえていいかわかりませんでした。こんなふうな考え方をしてみたことなど、いちどもありません。一瞬、彼女は自信がなくなって、この灰色の紳士のいうことは正しいのではないかとさえ思いました。

(ミヒャエル・エンデ作『モモ』より)

誰の利益にもならない。いるというだけで、周囲に害悪を流している、みんなの敵。

なんともひどいセリフです。いるというだけでですよ。悪事を働いてもいないのに、みんなの敵呼ばわりです。役立たずやでくのぼうと言われるだけならまだしも、みんなの敵ですからねぇ。しかも子供に向かってです。

こういうことを他者に向かって平気で言う上記の登場人物の価値基準がどこにあるかというと、「利益」「成功」「金もうけ」「えらくなる」です。

この灰色の男のような価値観の奴ばかりになった国家や社会で「みんなの敵」認定されてしまった「個人」は、国家または社会構成員としては認められず、とみなされてしまいそうですね!

これはすごく恐ろしい!

↓こちらの動画は、資本主義の弊害について分かりやすい説明がされています。

2018.7.16「資本主義がダメな理由(1)」大西つねきの週刊動画コラムvol.35

一部の資本家が利益をあげ決定権を持つばかりで、労働者が豊かにならない仕組みが語られています。

「公共の福祉」と「基本的人権」との調和

それで大切になってくると私が思うのは、『公共の福祉』を広辞苑で調べた際に付随していた「基本的人権との調和が問題にされる」という一文です。

条文から完全に消されそうな単語『福祉』を広辞苑で調べてみます。

幸福。公的扶助やサービスによる生活の安定、充足。
消極的には生命の危機からの救い、積極的には生命の繁栄。

だそうです。

『幸福』は、わがままな人には際限がないと思います。悪魔さんなら死ぬまで「もっとだ」「まだ足りねぇ」とか言い続けるかもですね。では、最低限のことを断固保持するならば、まず何と言っても「生命の危機からの救い」でしょう。

ところがこの『福祉』という言葉が条文から消されようとしているわけです!

で、もともとの条文は単なる「福祉」ではありません、「公共の」がくっついています。

では、少女モモのように「みんなの敵」扱いされた人は、自分が暮らす社会で「生命の危機からの救い」が得られるでしょうか?

みんなにデクノボーと言われる人には「生命の危機からの救い」が得られるでしょうか?

私は期待薄な気がします。だから恐ろしい!

では、『基本的人権』とはどんなものなのでしょうか?

広辞苑によると・・・

人間が生まれながらにして有している権利。人は生まれながらにして自由かつ平等であるという主張に表現されており・・・

ああぁあぁぁ〜よくわかりません!(ジミーちゃんのように頭かいてパニクりそう) 権利とか自由とか平等とかは、どう定義されたらいいんでしょう?!

おかしな知識人とかは「殺す権利、死ぬ権利」とか「殺す自由、死ぬ自由」とか「平等に殺す権利」とか言いそうですやん! 自由競争原理の究極がそこにありますし、戦争を平気でやってる人たちがいるし。

一旦パス!

日本国憲法のための視点を見てみます。広辞苑によると・・・

平等権、自由権的基本権(人身の自由・精神の自由・経済の自由)、社会権的基本権のほか、基本的人権を現実に確保する参政権などについて規定。

とのこと。

平等権については、ちょっと保留。生まれながらに顔立ちや体格や受け継ぐDNAも同じではないので、複雑です。

自由権的基本権(人身の自由・精神の自由・経済の自由)まずコレに着目。

人身の自由・・・

精神異常者の人身の自由や、自殺企図のある患者の人身の自由は、どう考えれば良いでしょうか? ややこしいですね。

精神の自由・・・

精神の自由も、本当にどんな精神も自由なんでしょうか? 教師に暴言吐いてツイッターで炎上させる精神も自由? 世界征服を企む精神も自由? 全人類破滅を国や社会の過半数が望むならそれも自由? なんかイヤだなぁ。

経済の自由・・・

「経済」ってなんでしょう? 広辞苑で調べると

①国を治め人民を救うこと。経国済民。政治。
②人間の共同生活の基礎をなす財・サービスの生産・分配・消費の行為・過程、ならびにそれを通じて形成される人と人との社会関係の総体。転じて、金銭のやりくり。
③費用・手間のかからないこと。倹約。

国を治めて人民を救うことの自由。政治の自由。

「国を治めない自由」「人民を救わない自由」とか言い出す人もいそう。

この自由というやつ、やっぱりかなりクセモノです!

自由とは?

『自由』について広辞苑で調べてみました。大きく分けて二つありました。まずひとつ目。

①心のままであること。思う通り。自在。古くは、勝手気ままの意に用いた。

↑コレ、な〜んかイヤです。ショッキングピンクの豪邸も、モモに暴言吐いた灰色の男もOKになりそうです。

では次

②一般的には、責任を持って何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。この意味での自由は、自然・社会の法則の認識を通じて実現される。

↑はい来ました〜、コレなんだか重要そうな気がしますよ! ひとつひとつ考えていきましょう。

自由に付随している責任

責任を持って何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。

『責任』の言葉が出てきましたね。なぜ「何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。」だけではないのでしょう?

「責任を持って」を抜いて、一番物騒なケースを出してみます。

「人を殺すことに障害(束縛・強制など)がないこと」と置き換えてみましょう。これを憲法条文的な視点に置き換えてみると「国民の皆様、あなた方が人を殺すことについて一切束縛したり禁止したりしませんからね〜」と言ってることになってしまいます。物騒ですね〜。あの物騒なダイレクトメール思い出しちゃいました。

だから「何かをすることの自由」には「責任」が付随してるのでしょうか。

では先ほどの文章に「責任を持って」を戻してみましょう。

「責任を持って人を殺すことに障害(束縛・強制など)がないこと」

あれれ??? なんだか殺しのライセンスを付与された007が想像されてきちゃいました。

けれども憲法条文を前提としての思考である以上、国民全体に対する自由を考えるわけですから「国民の皆様、あなた方が自分で責任を持って人を殺すことを束縛したり禁止したりしませんからね〜」ということになりますね。

ここで私はわざと「自分で」という言葉を足しました。何故だと思いますか?

007や軍隊や死刑執行のように国家機関などからの命令や権限を与えられた場合と、一般国民の自由を明確に分けないといけないからです。命令を受けた場合は命令をした者に責任があるはずですから。(*命令される側は、命令を拒否する自由もあるでしょうが、拒否するリスクもあります)

さぁ、そうなるとあの食わせ物の「自己責任論」が幕を開けて暴れそうですが、一般的には自分の行動の自由には責任が伴うと考えるべきでしょう。命令や強制や脅迫によるものでない限りにおいては。

なので

無条件的な絶対の自由は人間にはない

ということなのでしょうね。

自由が成立する前提条件

自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。

「自由が成立しているのは、一定の前提条件があるから」と、当然のごとく断言されていますが、どうしてでしょう?

逆説的に考えてみましょう。

「自由が成立する前提条件なんかあるかよ!」と否定したい場合、お金も水も空気もない条件で自由を獲得し、世界に持論を証明してみせればいいはずです(笑) もちろん「死ぬ自由」なんて屁理屈はナシです。社会全体に適応できませんから。

自由の成立には前提条件があることを理解できましたね。

本当はそういうことだけじゃないんですけどね。

本当のところは「死んでも誰のせいにもしない覚悟があるなら、好きにしなさい」みたいなことだったりもします。つまり「好きにしなさい」という自由を与えるためには「死んでも誰のせいにもしない」という約束(前提条件)がないと困るということです。

例えばサメがうじゃうじゃ泳いでる海を遊泳禁止にしたところ、説明するにもかかわらず、おバカさんが「なんで泳がせないんじゃコラ! 俺の勝手だろが。サメなんか怖くねぇよ、こっちが食ってやるよ」と駄々をコネまくり泳いだ結果、サメに足を食いちぎられてしまい「なんで俺を止めてくれなかったんだ! なんでもっと早く助けてくれなかったんだ! 俺の足はもう二度と戻らない。管理者の責任だ償え!」とか身勝手三昧を言っても認めませんよということです。

自由を阻む障害

自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大する

自由には大きい小さいがあるのですね! 今まで考えてみたことがありませんでした。

”いつでも隣町まで行ける自由””いつでもブラジルまで行ける自由”では違いますもんね。

”いつでもブラジルまで行ける自由” が最大の自由だと仮定しましょう。その最大の自由を失って ”いつでも隣町まで行ける自由” に幅を狭められた場合、そこに立ちはだかった「障害となる条件」は何でしょうか?

  • お金がなくなったからでしょうか?
  • 自家用機に乗れなくなったのでしょうか?
  • パスポートを発行してもらえなくなったからでしょうか?
  • 戒厳令が敷かれて、海外はおろか国内小旅行も禁止されたからでしょうか?
  • 警察に何かの容疑をかけられ、行動を制限されたからでしょうか?
  • 病気でほとんど動けなくなったからでしょうか?

あらゆる障害が考えられそうですね。

 

では、自由の程度を根源的な「生きるか死ぬか」という究極の問題にしてみます。

生きるためにどんな人も絶対に必要とするもの。水と空気と食料の問題で設定してみます。

”いつでも新鮮な空気を吸って、いつでも清潔な水が飲めて、いつでも安全で好きな食べ物を好きに選んで食べられる自由” から ”いつでも新鮮な空気が吸える自由” だけに狭められた人に立ちはだかった障害は何でしょう?

  • 口がふさがれた?
    (口を塞いでいるものを撤去しなければ!)
  • 土地が汚染された?
    (土地を浄化しなければ!)
  • 水と食料を誰かに独占された?
    (「分けて」と頼むか? 独占を禁止するか? 奪いかえすか?)
  • 水が枯れ、食料も生産できなくなった?
    (水資源を取り戻さねば!)
  • 水と食料の流通経路が閉ざされた?
    (現実に大震災でありましたね! 復旧は簡単ではありませんでした!)
  • お金がなくなった?
    (物乞いをするか、お金を稼がなければ!)

やはりいろいろな障害が考えられそうですね。これらは人の命に関わる問題なのですが・・・これらの障壁にはお金や法律や健康の問題以外に道徳的問題と自然環境の問題が含まれています。(*道徳的問題は、生命維持に不可欠なものを誰かが独占すること)

私はここでちょっとザワザワと胸に引っかかるものがあるんです。

それは条文から「必要」という言葉が消されそうになっていることです。

生きるのに最低限必要な要件は、満たさないと生きていくことは不可能。それなしでは最低限の『生きる自由』さえ奪われるのです!

2018.12.10「いい加減にしなさい!」大西つねきの週刊動画コラムvol.55

消されそうな「必要」の文字

憲法13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第13条(人としての尊重等)
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

もともとの条文にある「最大の尊重を必要とする」とは「最も大きな尊重が必ず要る」という意味です。

この「必ず要る」というのをやめちゃおうとしてるわけです。

少なくとも人の生命が尊重される「必要」が条文から失われようとしています。

そしておやおや? 「最大の」から「最大限に」へ変えられようとしてますよ。

「最大」と「最大限」の違いを広辞苑で調べてみます。

【最大】
最も大きいこと。

【最大限】
これ以上ないという限界に達するまで大きいこと。

「最も大きい」のは、私が考えるのは宇宙のようなもの。「無限大」です。でも無限大の要求をされたら、たまりませんよね。

やっぱり限度ってものがあって然るべきかと。

そうすると「これ以上ないという限界に達するまで大きいこと。」という『最大限』の言葉は悪くないと私は思います。

ただし、気になるのは「限界」は誰がどのように設定するのかですが・・・

「最大限に尊重されなければならない」けど「尊重が必ず要るってわけじゃないから。限界があるし、できないこともあるよね〜」となっていけば、人が死ぬのを見捨てるのは簡単になりそうです。

頑張っても救えない命がある場合もあることは分かりますが、「必要」を消して「限度」を付加し、その限度について何の定義もないのは私は怖いです。

↓若者の死因のトップが自殺なんだそうです。

こどもたちの未来のために大人がすべきこと1/3

↓人が豊かに生きるとは、どういうものか? お金だけでは測れない、自分の時間の使い方を見直す豊かさについて考えさせてくれます。

2018.7.23「資本主義がダメな理由(2)」大西つねきの週刊動画コラムvol.36

9:10 「疑ってかかる」「一人一人が自分の頭で考える」ことについて語っていらっしゃいます。

「統制」は論外として、「秩序はどうでもいい」と言い出して一瞬不安になりましたが、そのあとに続く説明で安心しました(例外的に良識なき人間は必ずいますが)。

13:14 「何のために生まれてきたのか」「自分の命を人質に取られている」

 

ところで、私が大学時代にお世話になった教授が、入学最初の頃にみんなを集めて雑談のように語った言葉を、私はずっと心に刻み留めています。

「右向け右」と言われてすぐ右だけ向くやつはダメだ。「右向け右」と言われたら、左も見てみて、それから右を向く。

(ある恩師の言葉)

私はこの教授からかなり目の敵のように否定ばかりされ続けまして苦手な方でしたが、それでもこの言葉だけはずっと私の意識に大切にストックされています。

何が言いたいかというと、好きな人が言うことだからとか、嫌いな人が言うことだからとかで、物事の価値を決めるのは違う! ということです。

ただし、在学中に私に良い環境を提供してくれた教授や、チャレンジする機会を与えてくれた教師は別の人たちで、その方々の存在がなかったら、私は潰されて成功体験を持たずに社会人になっていたかもしれません。

ひとりひとりの個性の中の、プラスの部分を引き出して育ててくれる大人の存在は必要。

たくさんの若者たちが、自分に合ったそういう大人と出会えるチャンスが増えるように祈ります。

おわりに

私は大西つねきさんのことをよく知っているわけではないので、今のところ手放しに全面的に推すつもりはありません。

ひとりひとり、それぞれに微妙に感じ方や考え方は異なるものでしょうから、あまり細かいことにこだわらずにいます。ただ一点だけすごくザワついていることがあります。

それは下の動画12:33からの「道徳」に関する言及です。

2018.10.29「個人の心の自由」大西つねきの週刊動画コラムvol.49

教育勅語を持ち出し「国家が言うことではない」「人(他人?)が言うことではない」とわざわざ公に主張する真意が理解できないからです。

大西さんが「資本主義がダメな理由(2)」の9:39から述べている「疑ってかかるマインド」にのっとり、私が納得できず疑問符が残りすぎる点を表明します。

私は教育勅語には全く関心がありませんでしたので、その内容について言及している部分についてはとくにこだわりませんでした。ですが「人にとやかく言われたくない」「自分のやりたいようにやる」とおっしゃっているのでしたら、大西さんも他人の言にとやかく言わないことが筋なのでは? 自分の自由は勝手で他人の自由はダメ出しというのでは、フェアではないと思うのですが。

それで教育勅語について調べてみました。大西さんは「内容はそれぞれ良いことを言っているかもしれない」とおっしゃっていましたが、それは前半部のことでした。

教育勅語のわりと最後の方は、今で言ったらテロや戦争の際のことが言及されている気がします。そのことはなぜ一切触れないのでしょうか? 実はそちらの方こそ大事なのでは? なぜなら安全や命に関わることなんですから。

教育勅語を自ら持ち出したのであれば、どうせなら「教育勅語は後半に、国家の危機の際には勇気を出して国家のために尽くせと言っているのですが、このような教育勅語を推奨するということは、日本の若者を戦争の際に駆り出すことになると思います」となぜはっきり言ってくれないのでしょうか? それを批判するのではなしに、前半部だけを指して「良いことを言っているかもしれない」としながら、それを「否定しても良いじゃないか」と論じるやり方に疑問が残ります。

そして大西さんは「自由」や「様々な価値観」を訴えていらっしゃいますが、それなら教育勅語を良しとする人の自由も、学校が道徳を教える自由も認めてあげるべきでは?

今回、私は「無条件的な絶対の自由は人間にはない」という広辞苑からの一文に触れて、いよいよ「条件なき自由」「制限なき自由」への警戒を強めています。

個人の自由を訴える大西つねきさんの「自由の条件」「自由の制限」はどこにあるのか、そこが疑問なのです。

それから「教育勅語」=「道徳」ではありません。

教育勅語は、『家のルール』だと私は思います。

例えば「お父さんは外に稼ぎに行ってくるから、その間お母さんは家を管理保持してください。子供は○時までに帰ってくるように」みたいなルールです。(共働き時代に古いかもしれませんが)

子供に門限も課さず、夜遊び放題、悪さし放題、未成年で責任持てないのに一時の快楽で子供ができて、弱い子からカツアゲをし、シャブをやり、イジメでよその子を自殺に追い込み・・・ルールの無いそんな家の自由を認めたいですか? 現実にあるんですよ、これに近い家庭が。

道徳教育とルールが無いからです!

ちゃんとしたルールを作る家庭はなかなかないかもしれませんが、集団社会の最小単位がおそらく家庭です。社会を健全に維持するにはルールが必要で、社会構成員が好き勝手ではその集団はいつか崩壊します。

昔は『家訓』なんてものがあった家もあります。

多くの方がご存知の『マルモのおきて』も家長が「おきて」を作りました。

マル・マル・モリ・モリ! 薫と友樹の振り付き映像

マルモのおきてを下に

  1. 子どもは子どもらしく!犬は犬らしく!(第2話)
  2. 遠慮は無用(第3話)
  3. うがい、手洗い、かぜひかない(第4話)
  4. すききらい、いわないのこさない(第5話)
  5. 好きでも嫌いでも家族(第6話)
  6. たんじょう日は家族みんなでお祝いすること(第7話)
  7. そうじはちゃんとやること!足ウラせいけつ!バイバイスリッパ!(第8話)
  8. ケンカしたあとは、ペコリンコビーム(第9話)
  9. みんなでみんなを応援しよう(第10話)
  10. はなればなれでも家族(最終話)
  11. しんじればこころもつながる、しんじればカッパにもあえる(スペシャル1)
  12. 失敗してからが家族 カニでもカニカマでもおいしいカニチャーハン!!(スペシャル2)

 

『国家』も『家』です。道徳とルールがなかったら、どうなると思いますか? ルールはルールでも、良心に背いた道徳のないルールではダメなんです。

家のルールは「家長」が決めます。国家のルールは「国の長」が決めて良いでしょうに。

それが嫌なら家出するか家長を説得するかではないでしょうか? (大西さんがやってることは家長の説得に当たるのでしょうか? だとしても「人にとやかく言われたくない」「自分のやりたいようにやる」では、大きな疑問符が残ります。)

 

学校でも、良いクラスには最低でも何かの決まりごと「クラスのルール」がきちんと設定されていることが多いものです。

そしてそのルールは人間の普遍性に訴え得る道徳的なルールでなければ社会は衰退していきます。自由の国アメリカの今がいい例ではないですか!

フランスからでっかい「自由の女神」を贈られたアメリカの今の姿は、身勝手な自由が横行したからでは???

ただし、現在までの道徳は確実に価値共有できていることが少なく、独善的な人もたくさんいるので、現段階では大西さんが言うように道徳を「教える」はナシで大賛成です。

今現在、学校教育で道徳がどのように扱われているか知らないのですが、私が若い頃は学校の道徳教育は「価値観の押し付けにならないように」ということは大前提だったのです。だから「教える」というより「考えるきっかけ」の提供だったような気がします。

学生の学びと成長の場においては、子供たちは成長過程にあるのですから成熟した大人と同等の人格者であることを求めるのは酷です。そういう視点から「道徳」に対して「やめてくれ」とおっしゃっているのかもしれません。

また、私は学校の先生というものを無条件には信用しませんから、学校の先生というだけで子供に道徳を教えることはとても危ないと思っています。その点でも大西さんに賛成です。

しかし、人には絶対に道徳が必要なはずです! 道徳なしに無制限に自由ならば、結局、金で価値観や偉さや自由の範囲を決める自由も認めなければならないはずです! (私は絶対にそれは嫌だから!)

道徳という言葉を広辞苑で調べました。

のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理。今日では、自然や文化財や技術品など、事物に対する人間の在るべき態度もこれに含まれる。

「人」と表現された箇所と、「個人」と記された箇所がありますね。

13条の条文が「個人」から「人」に条文が変わる意味を、道徳の点から考えてみるのもいいと私は思います。

ところで、もしも・・・大西さん個人が密かに狙っているものが、投資業界以外で覇権や成功をつかむことだったら、本当の意味で弱者は救済されないかもしれません。

単に「その時流の多数派を支持」することが大西さんの行動原理だったりしたら、どんなに「個人の心の自由」を唱おうと、最終的には弱者(少数派)を切り捨てる行動になりかねないと不安です。

なぜなら大西さんが言うように「道徳が状況とともに変わる」のならば、現在の大西さんが主張することも、いつ何時ガラッと変わってしまうか分かりません。

 しつけというのは、流行で変わるものではない。嘘をつかないとか、生き物をいじめないとか、盗まない、殺さないなどという、いくつかの基本的なことをしつけと呼んで、これを子どもが小さいときに教え込むことが大切である。それは、生きていくための要領とか、ずるさというようなことではない。人間としてとても大切なことだという意味で常識なのである。しつけとは道徳である。
(マークス寿子著 『とんでもない母親と情けない男の国日本』)

文明人の運命は、いよいよ、どれだけ力のある道徳を生み出せるかにかかってきています。
(アルバート・アインシュタイン)

 

もしも大西さんが、その時々の主流に乗っかっていくことを価値観にする日和見的な政治家になれば、べつに悪いことをしたわけでもない少数派に対して「自由にした結果の自己責任だ」と言って見殺しにする可能性は否めません。

もしそうならミヒャエル・エンデの童話『モモ』の少女は助からない可能性が大きいような気がします。掃除夫のベッポもどうなってしまうか・・・

みんなにデクノボーと呼ばれた男の娘が安全に暮らせる可能性は?

私は、道徳というのは人間が生きていく上で普遍的で必要不可欠な良心とか思いやりとか優しさのことのような気がします。

もちろん、大西さんがそういう危険を見ないふりで見殺しにする人ではないことを願います。そして本当に今よりも多くの人々が自分の可能性を幸福のうちに高めていける日本社会となり、それを保持し、世界へと広げていけることを願います。

 

 

私が見た限りで他に紹介したい大西さんの動画を載せておきます。

2018.12.31「経済バカを断捨離せよ」大西つねきの週刊動画コラムvol.58

私から補足したいこと

経済とは「国を治め人民を救うこと。経国済民。政治。」という意味だということ。人民を救わない株の仕組みは「経済」とは程遠いかもですね。

 

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